語りを選んだ被爆者の決意
長崎で幼少期に被爆し、その後沖縄へ移り住んだ浦添市の大城智子さん(85)が、地域で数少ない被爆語り部として講話を行っている。大城さんは4歳で長崎の爆心地から約1.3キロの地点で被爆したが、長年にわたり差別を恐れ、体験を積極的に語ることはなかった。近年、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のノーベル平和賞受賞を契機に、講話を始める決意を固めたという。
沖縄で語られにくかった被爆体験
沖縄では、1945年の沖縄戦で県民の約4人に1人が犠牲になったという激しい戦闘の記憶が強く、また在日米軍基地の存在などから被爆体験が本土の問題と受け止められることが少なかった。大城さんは「原爆は本当に恐ろしい。二度と私たちのような被爆者を出してはいけない」と話しつつ、自身が長年周囲に被爆者であることを明かせなかった経緯を振り返る。
「親戚から『結婚に関わるから、絶対に被爆者だと言ってはいけない』と言われた」
当時、沖縄は米国の統治下にあり、被爆者健康手帳の配布が本土より遅れて開始された(1967年)。そうした制度差や、沖縄戦体験者と被爆者との間にある心理的な隔たりも、被爆の事実を口にしづらくしてきた要因だ。大城さんは、自身や家族が基地関係の仕事に関わる中、差別や誤解を恐れて体験を伏せる選択をしてきたと語る。
語り継ぎの意義と地域への影響
被爆体験を語ることは、単に個人の記憶を伝えるだけでなく、核兵器の恐ろしさを次世代に伝え、核廃絶に向けた社会的合意を育む役割を果たす。沖縄では地理的・歴史的背景から核問題への関心が相対的に薄れやすいとの指摘があるが、語り部の存在は地域内での理解を深める契機となる。
専門家も、沖縄の被爆者が声を上げにくかった事情を指摘している。多摩大学の桐谷多恵子准教授(国際平和論)は、米軍基地で働く住民が多いことなどを背景に、「周囲に同じ体験をした人もおらず、声を上げづらい環境で生活せざるを得なかった」と述べている。こうした環境下での語り部の活動は、被爆者支援や正確な歴史認識の確立にとって重要になる。
市民や若い世代への伝え方
大城さんは最近、浦添市内の美術館で来場者約33人を前に体験を語った。被爆時の直接の記憶は年齢のため薄れているが、家族の手記や親族の証言をもとに、倒壊した家屋の隙間に挟まって犠牲になった弟や、その後に亡くなった祖母のことを語った。こうした個別の証言が、若い世代に「想像力」を働かせさせる一助となる。
- 語り部活動は地域の歴史教育や平和学習に資する
- 被爆者が声を上げやすい環境づくり(差別防止、支援制度周知)が必要
- 基地問題や沖縄戦の記憶と被爆体験の関係性を丁寧に伝える工夫が求められる
支援制度と住民への実用情報
被爆者には健康手帳などの公的支援制度があるが、沖縄での開始は本土より遅れた。被爆者やその家族が制度を利用する際には、自治体や県の窓口での手続き確認が必要となる。具体的には、被爆者健康手帳の交付申請、医療支援や健康管理のための相談窓口の利用が挙げられる。浦添市や沖縄県では健康相談や生活支援の案内を行っている窓口があるため、該当する場合は市役所の福祉関連窓口や県の原爆被害者支援課に問い合わせをするとよい。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 被爆年 | 1945年(8月9日、長崎) |
| 被爆場所からの距離 | 約1.3km(爆心地に近接) |
| 現在の居住地 | 沖縄県浦添市 |
被爆体験を公にすることには、個人の負担や周囲からの差別を恐れる心理的障壁が伴う。地域社会としては、被爆者の尊厳を保ちつつ記憶を継承するための環境整備が課題となる。学校や自治体の平和学習に被爆者の語りを組み込む際は、本人の意志尊重と安全配慮が前提である。
大城さんの語りは、沖縄の中で被爆体験が封印されてきた歴史を照らし出す。今後、地域でどのように被爆の記憶を共有し、核廃絶への議論を深めていくかが問われている。被爆から81年、個人の証言が地域の平和教育と社会的理解を促す契機となることが期待される。
(小川 拓海/沖縄県担当記者)